足元には青黒い世界が広がって居て、時折魚らしき影がちらつく。らしき、と言うのは彼女の知って居る魚とは少し違う気がしたからだ。やたらと目玉が大きかったり、突き刺されそうな恐ろしい牙が飛び出して居たり、びっしりと貼り付く鱗が刃物の様だったり……何だか奇妙な生き物(?)が音も無く近寄って来ては鰭を翻して潜って行く。
この硝子張りの海の上を歩き続けて、一体何処へ行くのだろう。どうして此処に居るのか、どうやって来たのか、どの位歩いて居るのかも忘れてしまった。見回しても周囲には何も無く、ただただ空と海の青さが広がって居る。本当に何も無いので方向感覚も解らなくなりつつある。取り敢えず、引き続き今向いて居る方向に歩く事にする。
遠くの方にぽつんと、何かが見えた。物凄く小さく見えたのでどれだけ遠いのかと思ったが、案外近くにあった。
「おや、御客様だ」
小さな台に小さなレモンが積んである。台の横には木箱があるが、溢れ落ちたレモンが台の下にまで沢山転がって居る。退屈そうに喋ったのは尖った耳に尖った鼻の黒い生き物(?)で、此処はレモネードスタンドらしかった。
「どうぞ。君か、此処の主は」
レモネードを受け取り、鮮やかな黄色を何も無い風景に透かしてみる。空も海も、淡い緑色になった。青以外の色を久し振りに見た気がした。少し疲れたな、と思いながら一口飲んで、カップの底に何か沈んで居るのに気付いた。レモン……では無さそうな。
「それね、君の欠片」
私の欠片、とは。 ざっと自分の体を見回してみたが、爪も指も、眼もある。欠損した部分は無さそうだが。黒い生き物が少し不思議そうに笑った。
「解らない?此処は君の世界なんだけど」
私の世界、とは。 夢を見て居るのだろうか。
「君は独りきりで死んだの」
…………。
「此処に何も無いのは、君が生きて居る間に何も無かったから」
思い出す事なんて何も無いでしょ、と。黒い生き物は転がったレモンを拾い上げながら言った。何も無かったなんて酷いと彼女は思ったけれど、確かに思い出せるものは何も無かった。ただ生まれてただ死んだ事に何か意味はあったのだろうか。何も無い彼女には、解らない。
「それ、集めたら良いんじゃない。どうなるかは知らないけど」
【レモン/ガラス/海】