目の前に転がるのは名前も知らない誰か。未だ生きては居るが、放って置けば絶命するだろう。悪態を吐く余力も無い様で、光を失いつつある眼は此方を見上げるだけ。彼の感情は血液と共に流れ出てしまったのだと思った。無意味な時間が無意味に過ぎて行き、勝者のコールと共にゴングが鳴らされる。観客の歓声は、無い。彼等もレフェリーも、相手のセコンドさえ目の前の惨状に絶句して居た。露出した口元に薄っすらと笑みを浮かべ、勝者である虎の覆面をした青年はリングを降りた。
「良くやった」
控室に戻ると、獅子の覆面の男が座って居た。低く唸る様な声は恐ろしく威圧的であったが、それを気に留められない程に虎の青年は興奮して居た。
「最ッ高だった!未だ残ってる、彼奴の骨が、内臓が砕けた時の感覚と心臓の音!」
自身の体を抱え、先程の試合の熱を吐き出す様に話し始める。獅子の男は彼をベンチに座らせ、傷の手当てをしながらそれを静かに聞いて居た。
この虎の青年は良くも悪くも平均的な超人であった。特別優れた部分がある訳では無く劣る部分がある訳でも無く。しかしその残虐性は群を抜いて居り、彼が紛れも無い悪魔超人である事を色濃く映して居た。能力面で伸びないのならと、師である獅子の男はそれを前面に出して戦う事を教えたのだ。程無くして「相手を壊すのを全身で感じられるから決め技はボディプレスが良い」と自ら言い出した時は歓喜と同時に戦慄を憶えた。
「だがお前は相手と同時に自分を傷付け過ぎる。何れ気付かぬ内に死んでしまうぞ」
「……残虐ファイトを自重しろと言う事ですか」
「自重では無い。残虐性とは相手に向けるものであり、自らに向けるものでは無いと言う事だ」
試合の熱が冷めて来るに連れ痛みを感じ始め、其処で漸く師の言葉を理解する。経験の浅さ故に傷付き傷付ける事より楽しむ事を優先してしまうのだが、徐々に頭と体で憶えて行くだろう。獅子の男は、つまらぬ超人だと切り捨てた者を後悔させる程の強さと残虐さを兼ね備えた悪魔超人に虎の青年を育てたかったのだ。 不意に、扉を叩く音が響いた。
「し……失礼致しますっ……」
獅子の男が扉を開けると弟子の独りが立って居り、慌てた様子で獅子の男に何かを話して居る。虎の青年には内容は聞き取れないが、自分には関係の無い事であろうと思い、気にする素振りもせず包帯の下の痛みと睨み合って居た。
「……光栄に御座居ます」
虎の青年が新たな気配の方を見ると、金色の髭の男が入って来た所だった。未だ何か話して居る様だが、獅子の男が深々と頭を下げて居る所を見ると余程偉い人物なのだろう。扉の傍に弟子を残し、獅子の男と髭の男は虎の青年が座るベンチの方へと歩いて来た。
「貴様か。先の試合、なかなか見事であった」
「死皇帝殿、此方へ」
獅子の男に促され、髭の男は虎の青年と向かい合うベンチに腰を下ろした。
「死皇、帝……?」
虎の青年はつい先程まで睨み合って居た痛みを引き摺りつつ、ベンチの傍に立つ師に問い掛ける。悪魔超人としての名前と戦歴を良く耳にする人物。目の前の、金色の髭を蓄えた男がそうらしい。それを認識した途端、漠然とした恐怖が込み上げ血の気が引いた。
「貴様を朕のタッグパートナーとして迎えたいと思うて居る。此奴も快諾したわ……後は貴様自身の返答のみ」
それだけを言い放ち、死皇帝はベンチを立った。返事をする事も無く茫然とする虎の青年を置き去りにして、彼と獅子の男は背を向ける。去り際、死皇帝は軽く振り向き呟く様に言った。
「良い返事を、期待して居る」
絡み付く様な冷たい声に、心臓を握られた気がした。
【蛟竜毒蛇】