“003”
この少し先に大きな流木がある。
そこで今夜の食事と致そう。
其れまでにどれだけこの男の血を美味くする事が出来ようか…。
そう考えるとつい口元が緩む。
牙が男の目に触れぬ様、袖をそっと宛がう。
その様子に気付いたのか男の視線がこちらに向けられた。
私は少しだけ男を見上げ小さく微笑む。
「娘さんのその白い肌、月の光に輝き、まるで珠の様だ…」
男はうっとりと目を細めそう呟いた。
罠に嵌ってゆくこの男が愛しく、私は体に熱を感じた。
卑しくも目の前の食事に喉が鳴る。
あの流木まで辛抱できるだろうか。まだ少し距離があった。
この浜辺はあまり人が通らない。
今日彼を見付けたのも20日振りだった。
彼の前に通りがかった者は、酷く細身で、味も薄く、
酒の香りが強過ぎ、なんとも味気ない者だった。
しかし今隣を歩く男は、逞しい肩、筋肉質な四肢ながらも、
目鼻の整った凛々しい顔。そして隠し切れない程の甘い血の香り。
「貴方様のお手はとても逞しゅうて、安心致します。」
そう言う私に彼は耳を紅くし、はにかんだ様に笑う。
「私の名は竜之進と申します。娘さんの名を教えては頂けませぬか?」
「名は…磯と申します。」
「お磯さん、素敵な名ですね。」
彼はそう言って絡めた指に力を込めた。
私も僅かに力を込めて握り返すと、彼の目に艶っぽい光が浮かんだ。
鼻先を掠める彼の血の香りが濃さを増し、
喉の乾きが私の頭を支配してゆく様だった。
渇きと空腹に自然と眼に涙が滲む。
しかし折角の食事だ。可能な限り良い状態で食べたいものだ。