逆転/企画・AtoZ
「刑法、第261条‥‥」
六法全書に記述されている条文を怜侍は声を出しながら読み進めていく。法律に関することを覚えていくことは、父のような弁護士を目指す彼にとって一つの楽しみとなっていた。
「他人のものをハソン? つまり、壊したら罰せられるわけだ。」
難しく書かれている条文を自分なりに噛み砕いて怜侍は意味を理解していく。となれば、これは何の罪に問われるのかと考え結びつけようとした。
「‥‥なんとかハソン罪。なんだったか。」
喉にまで出掛かっているが、言葉が出て来ない。しかし、もう一押しで思い出せるところまで来てはいた。記憶を上手く引っ張り出せずにいると人間、モヤモヤとして考えることも放棄したくなるが、怜侍は冷静に頭を働かす。むしろ彼にとっては、これも楽しみの1つだった。こうして、学べば学ぶほど、法律に関われば関わるほど、父に近づいているような‥‥そんな気がしているのだ。
「もの‥‥。壊す‥‥」
罪状が出て来ず、つい頭で考えていることが声に出た。条文から連想しようとしているのだ。
(あ、思い出しそう‥‥)
確か、漢字で“物”とあった気がするとぼんやりと思い出した。
あと少しで分かりそうだ。怜侍はそう思い、先ほどよりも更に意識を集中させて頭の神経を目一杯巡らせた。――と。
「器物損壊罪、だよ。」
「!」
それだ、と閃いたと同時に、ひとりきりだった空間に第三者の声が聞こえたことに驚く。ドアに背を向けていた御剣は慌てて振り返って見た。
「あ‥‥っ!」
侵入者を見た途端、警戒していた御剣の体の緊張が解けた。御剣の知らない人ではなかったからだ。むしろ尊敬し憧れている、大好きでたまらない大切な人だった。
「お父さん! お帰りなさい!」
駆け寄りながら言うと、御剣は勢い良く父に抱きついた。
「ただいま。イイ子にしてたか?」
「うん!」
ふわりと笑う父に御剣は元気よく答えた。先ほどまで六法と向き合っていた子とは思えないほど、無邪気で子供らしい表情をしている。抱きついた父からは冬ならではの外の匂いと、裁判所独特のものが微かに混じっていた。仕事をして来たのだと子供の御剣にも分かる証拠に、自然と高鳴る気持ちが抑えられない。
「ねぇ、ねぇ。今日のサイバンどうだったの? ムザイに出来た?」
興奮して質問責めをする我が子に、父は苦笑にも似ている笑顔を浮かべた。
「ああ。犯人ではなかったよ。」
頭を撫でながら、そう答えると息子はにっこりと笑った。裏のない、素直な子供の満面の笑顔で。抱きついて離れない息子の頭を撫でながら、ほっぽりだされた六法全書をちらりと見て父は暖かい笑みをこぼす。
「また勉強していたのかい?」
「うん!」
弁護士になること。それも父のような弁護士になるのだ。それだけが彼の心の中を占めている。父を見る怜侍の瞳は、夢に想いを抱きキラキラとした輝きに満ち溢れていた。
「じゃあ、問題だ。」
言いながら、父は息子を抱き上げた。肩に捕まる怜侍はどんな問題を出されるのかとワクワクした表情をしている。
「弁護士に一番必要なものって何だと思う?」
怜侍を抱きかかえたまま、父は部屋を抜けて廊下を歩きだした。向かう先は、息子の部屋だ。その間、怜侍はうーんと唸り声を上げながら小さな頭をフル回転させる。
「‥‥知識?」
「たしかに、それも大事だね。だけど一番じゃないなぁ。」
「じゃあ、声の大きさ?」
「あはは。異議あり! って大きな声で叫ぶから、必要かも知れないね。だけど残念。ハズレだ。」
声量なんて考えもしなかったな‥‥。子供ならではの凝り固まっていない発想に父は声を出して笑った。
正解を必死になって考えている怜侍だったが、父はもう彼の部屋についてしまった。息子をベッドに座らせると、自分も隣に腰をかけて彼の言葉を待った。
「‥‥分からない。」
「おや? もう諦めてしまうのかい?」
からかうようにニヤニヤと笑う父を見て、怜侍は少しムッとした表情させた。
「諦めはしないッ!」
負けず嫌いな怜侍のことだ。父の予想通り、売り言葉に買い言葉で食ってかかる勢いで言い放った。一手先を読むのは職業柄だから既にクセになってしまっていると言ってもいい。だが、それが息子に効くとは。そう思うと、クツクツと笑いが込み上げて来る。しかし笑うのは可哀想だと堪えた。
(まぁ、でも――)
怜侍は1人で考え込み始め、ぶつぶつと独り言を言っている。どうやら正解を自分の中で選別しているらしい息子を頬杖しながら見つめる。
(素質は持っているのかな)
どんなときも諦めない心。
信じた依頼人は最後まで信じ抜く心。
守るべき弁護士がくじけてしまえば、見放してしまえば、被告人を無罪にすることは誰にも出来ない。
(あとは、そうだな)
真っ直ぐ進んでいるつもりでも、自分では気づかぬうちに曲がっていることがある。それを正してくれるパートナー、信頼出来る人を見つけることが出来たなら‥‥。そうすれば弁護士として、いや、それだけじゃなく、法廷に立つ者として必要なものを見つけられるのではないだろうか。きっと、この子にはそれだけの力を持っていると父は思った。
(‥‥さすがに、そこまで思うと親バカかな)
未だに見つからず、頭を悩ませている息子を暖かい目で見つめながら、バカ親にならないよう気をつけなければな、と笑った。
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