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ノコミツ+信楽
最近の彼は裁判が立て込んでいることもあってか、いつも以上に忙しない。それを知っている糸鋸は一刻も早く書類を届けるため、足早に検事室へと向かっていた。
――検事、いるッスかね。
入れ違いになってなければいいとぼんやり思いながら、執務室のドアの前に立ち軽く身だしなみを整える。どんなに急いでいてもイイ格好をしたく思うのだから、自分の溺れ加減に呆れて薄く笑った。
「御剣検事、失礼するッス。」
ノックをして声をかけてみたが、中からの返事はない。いないのか、とも思ったが微かに人の気配を感じた糸鋸はもう一度、今度は控えめにノックをし、そろーっとドアを開けて覗いてみる。もしかしたら、あまりの多忙で眠っているのかも知れない。そう考えた糸鋸は静かに声をひそめて中を窺った。
「失礼しま‥‥。」
そこで、糸鋸の言葉がピタリと止まった。あるべきはずの上司の姿はなく、代わりに中肉中背の帽子をかぶった渋い中年男性が御剣が愛用しているソファに寝転がっていたからだ。
「あ、お邪魔してまーす。」
男はニカニカと笑いを浮かべ、広げた手を軽く振りながら糸鋸に軽い挨拶をした。その振る舞いに、突如糸鋸の心に不快に思う黒い感情が渦巻く。
――なんでアンタがここにいるッスか。
苛立ちまではいかない、僅かな嫌悪感。心の中で呟いてすぐにハッとし、生まれた感情に糸鋸自身が戸惑った。
(‥‥仕事でイラついてるだけッス。)
たぶん、きっとそうだ。追われるように働く中でだらだらと休んでいる弁護士なんて見たから不快に思っただけ。他意はない、はずだ。チクチク刺さるような自己嫌悪と、拭い去れないモヤモヤした気持ちを飲み込んで糸鋸はいつもの人懐っこい笑顔を浮かべて問いかける。
「何してるッス?」
そう尋ねると男――信楽は、ああと答えながら大きくのびをして起き上がった。
「ちょっとレイジくんに用があったんだけど‥‥放っておかれちゃってね。」
ついつい眠りかけちゃったよ、と笑う男につられて糸鋸は愛想笑いを浮かべる。彼がいつ出て行ったかは分からないが、きっとすぐには戻って来ないだろう。書類を渡し、あとは口頭で説明しようと考えていたがいないならば仕方ない。
糸鋸は信楽との会話もそこそこに、持ってきた書類を机のど真ん中に置いた。そして、警察手帳の一部を破り書き置きを残していく。御剣が目を通して分からないことはないだろうが、一応念のために。
(これで伝わるッスよね。)
ふぅ、と息をついて糸鋸は胸ポケットに警察手帳とペンをしまうと信楽に軽く会釈をしながら部屋を出て行こうとドアの前まで移動した。じっと信楽に見られていることに緊張しながら、最後までへらりとした笑顔を向けてちょっと頭を下げてドアノブに手をかけた、その時だった。
「もう帰っちゃうの?」
出て行こうとした矢先、かけられた予想外の言葉に糸鋸は戸惑う。
「え、はい。そう、ッスけど‥‥。」
「せっかく話相手が見つかったと思ったのになあ。」
残念、とわざとらしく肩を落としてアピールする信楽を糸鋸は困惑した表情で見つめる。話相手と言われても、今まで彼と1対1で話したことはないのだ。信楽と話すときには必ず御剣がいて、ちょっかいを出す信楽とかまわれる御剣を自分はただ淋しく眺めているだけ。その光景を思い出した瞬間、糸鋸の心に再びモヤっとした感情が生まれ、信楽を見ていた視線を外して俯いた。
「‥‥悪いッスけど、仕事中ッスから。」
いたたまれない。
一刻も早く、この場を去りたい。忙殺して膨れ上がる何かを忘れてしまいたい。
そう願う糸鋸の胸中に気づいていない信楽はまあまあ、と緩く笑った。
「そんなカタイこと言わずにさ。きみもレイジくんに大事な用があったわけでしょ?」
「そうッス、けど。」
「なら一緒に待っていようよ。きみは仕事、ぼくは暇つぶし。ホラ、利害が一致しているわけだし。」
ね、と強制するように賛同を求めた信楽に糸鋸は思わず険しい顔つきになる。‥‥一緒になんて待っていられない。いられるわけがない。
(御剣検事が戻って来たら、この人はまたちょっかいを出すに決まってるッス。そうして、いっつも邪魔ばかり‥‥。)
心の中で呟いた自分の悪意のある言葉に糸鋸はハッとし、とっさに口を押さえる。
(邪魔って思ってたッスか? 御剣検事の大切な人を、自分は邪魔だなんて。)
以前、御剣が言っていた。自分にとって信楽はお兄さんのような存在なのだと。それくらい信頼していて、自分のキズを共有出来る数少ない人物だと語っていた。家族を失った御剣にとって信楽は血の繋がりこそないが、家族のようなものだったんだろう。それはきっと信楽も同じなはずだ。そんな人を知らず知らずとは言え、邪険に思うなんて‥‥と糸鋸は自分を渦巻く淀んだ心にショックを受ける。
(自分は最低な人間ッス。御剣検事が大切に思う人を目の敵にするなんて、本当に最低ッス。)
ずっと苦手意識を持っていた原因が何だったのか、ようやっと分かった。そして痛いくらいに深く反省をする。‥‥が、心の奥底は信楽が疎ましくて仕方ない。絶対に揺るがないポジション。それをこれ見よがしに使って御剣に近づく信楽が、邪魔で妬ましくて、憎い。
「や、やっぱり、失礼するッス!」
糸鋸は一気にまくし立てて、そう告げると慌てて執務室を飛び出した。あれ以上、あの場所に居続けたら糸鋸の中にある正義と刑事の心が、醜く歪んだ想いに押しつぶされて発狂してしまいそうだった。悪意はないと分かっているのに、湧き上がる気持ちを上手くコントロールすることが出来ない。
「‥‥はあ。」
糸鋸は重たく深いため息をついて、胸にしまった警察手帳に刻まれている旭日章を力強く握り締めた。