かいたやつとかの記録

嵐のあとで(R18)

2022/09/27 00:00
鳥メン
 
 人肌に似通った温度と、目に見えない霧雨が立ち込めているかのような湿度だった。
 青緑の密林の奥底で鷹山崇を手招いて、一緒に踊りたがるものは、ゆるゆるとうねる長い髪と黒く薄くよく伸びる肌を纏い、不思議な愛嬌で笑いつづけている。
「エンデ」
 名前をつけておいたのは良かった。
 飛び立ちそうになるたびに、呼び戻せる。
 時折、目が合う。白い歯が鋭く尖ったり、爪がくるくると巻かれたりと。
 形はますます定まらない、体にすべての性具をそろえて父性も母性も持っている。ゆえにぬるい雨のように注がれる無数の呼びかけはその一欠片さえも愛情だった。
 罪なき赤子。
 愛しいわが子。
 殻付きの雛鳥。
「かわいい、かわいい、かわいい坊や。お前は、いずれ足を失いそうだね」
 エンデ自身の目には未来も現在も見えてはいないが。
 エンデを通して、次々と何かが編まれては詠まれゆく。鼻歌は軽くてよく弾む、悲しみも、憐れみもないままに。
 エンデはゆらゆらと踊り続けた。
 いずれ足を失いそうだなんて不吉な可能性の前後には、そのまま、あたりまえのように一切の説明がなされず。
 いつ、どのような因果で、なにを理由として失うのかを、問うてみるくらいはしてもよかったのだと鷹山がぼんやりと気がついたのはしばらくの月日を置いてからであった。


 暗い海を渡る。
 羽ばたいて、羽ばたいて。
 飛べるところまで飛んでは、波間に漂う朽ちた漂流物に短くたたずみ、また羽を動かした。
 陸地を離れてから随分と時間が経っていた。
 次の陸地はいまだに見えてはこなかった。
 そうして、ひとり、たどり着いた場所は月の表面のように色のない妙に寒々とした土地で、しかし、今となってはその記憶が現実かどうかも鷹山にはあやしかった。
 夢なのかもしれない。
 世界の果てにたどり着いたなどという感覚が正気のものとは思えない。
 一。
 二。
 三歩目で崩れそうになった。
 鷹山を、唐突に理解が貫いた。
 自らの重みを支えることを長らく忘れた足はすっかりと萎え衰えていた。
 成程、そうか。これでは、歩けない。


 あの時はとても恐ろしかったのだと、ぐいぐいと額を押し当てて、理由も告げずに存分に甘えた。
 押すな押すなとむずがってよじれた烏丸はどこもかしこも剥き出しの素肌で、ただそれだけで鷹山の機嫌は徐々にも上を向いてきてしまう。
 やわらかい綿と布とが重なる寝床に烏丸を転がして、真上に被さり深く体を折り曲げればぺたりと触れる面が増す。
 しばらくはそのまま目を閉じていたが、やがて、次の欲が沸く。
 折り曲げていた体を起こせば、すぅと空気に触れて、肌が冷えた。かわりにこちらを見上げている表情をよくよく眺めて返すことができた。
 次はどこに降りようか。
 烏丸の、どこに、自分のどこを降ろそうか。
 鉤爪に狙いを定められている最中だというのに、とりたてて余裕を失うこともなく。
 なぜだか烏丸は小さく笑う。
「がちがちだな」
 そして、物音も。
 気配もさせずに掲げた片足の、くるぶしの内側で鷹山の膝から下をとんと叩いた。
「そうか?」
 はたしてそうだろうかと、過ぎた感覚を反芻しようとしたときに。
 もう一度、烏丸は先ほどとは逆側の足を持ちあげた。その内くるぶしに浮き出た骨をごりごりと鷹山の外脛に円を描くように擦りつけられる、たしかに、言われたとおり鷹山のその部分の筋肉は硬く張っていた。
 すぐにくたりと降りてくる。
 目にかかる長さの前髪を掻きあげるのとは逆の手で、襟足の下からも掻きあげる。忙しなく両掌で撫でまわして、両肘でぎゅうぎゅうと抱き込むには烏丸の頭部はあまりに小さい。夢中になるあまりに、つい乱暴に折り曲げられた耳について、取れたら責任を取れよと戯れの苦情を呟き終えた烏丸の、口に重みを乗せゆき、滑らかな発語を鈍らせた。
「やわらかいな」
 たっぷりと溜めた息を吐く。息を吐いて揺れている。
 つかまえた尻の肉を揉みながら強く指先を押し込んで、その奥にある足の継ぎ目の骨頭のかたちを夢中でまさぐっていると。
 自らの、顔の上で腕を重ねて、目も口もおよそ大部分を隠していた烏丸は。
「かたいだろ、おれも」
 浮かせた腰を擦りつけてろくでもなく鷹山を煽った。


 こうしていると、昔、まだ飛び方を教えていた頃に抱き合って夜の海に落ちたことを思い出す。
 烏丸はどうだか知らないが鷹山はあれがなかなか楽しくて、いつか、いつでも、また、一緒に、と思っていたのだ。
 そういう意味は、もうずっと、違う意味合いで、溺れに溺れきっていたのだった。


 それでも早朝には目が醒めた。
 最低限にしか厚みを持たない建物の壁と、窓ガラスを隔てた外界の太陽の明るさが時計を見ずともおおよその時刻を指し示していた。いつもと少しだけ違うのはぬくもりに蒸された寝床に座り込んで数十秒、もしくは、二、三分の短い時間なりとも、その場を離れるのを惜しんでいたことだ。
 やがて、鷹山崇は鈍く動きはじめた。
 最短の動線で生活のための水場へ移動、洗顔をして、歯を磨く。
 床の軋まぬ場所を選んでは、そこを踏む間に耳が拾った、道を挟んだ飼い犬の鳴き声。
 近づく排気音、他人の家のポストに新聞が捩じ込まれる音を数えながら、適当な服に体を通した。
 烏丸はすうすうとまったく涼しい顔をして眠り込んでいる。鷹山は側に屈み、昨夜、苦情のあった耳のふちを目にとめた、光に産毛と、細い血の管が透けていたので。
 思わず指を伸ばした矢先に、烏丸が片側のまぶただけをようようと持ちあげて開く。
 眠気は随分と重たいらしく両方を揃えて持ちあげるのには時間を要した。
 楽しんだ分だけ恥じ入る様子を、興味深く注視されるなどという立場にいつまでも甘んじているような男ではなかった、なにしろ烏丸は、元来、死ぬほどに気が強い。
「早くいけよぉ」
 両瞼と同じ重みで開いた口は、昨夜の出来事を無かったこととした潔さがあった。
 けれども、その一つ一つ音の並びが、耳を潜って奥底を叩けば、鷹山の身体の内側に鮮やかに甦る。
 こぽこぽと、ごぼごぼと、喉奥につらなる場所に溜めこんでいたものを絞り出して、留めることなく吐いていた、目も眩むような、大小さまざま、輪郭を変える無数の塊、眩しく泡のように昇るものらは、いくつかが爆ぜて弾けて烏丸英司の声となる。という幻視。それを振り払い。
「わかった、行ってくる」
「うん」
 しばらくは、しんと短い沈黙が落ちた。
 屈む側は立ち上がらずに、寝転ぶ側は起き上がらない。
 鷹山としては満更冗談でもなかった。
 そうしたいのは嘘ではなかった。
 烏丸と、誘う呼びかたをしてから。
 「一緒に来るか」
 言い終えるや否やのタイミングだった。
「なんで俺が今朝、町内を! 一周できると思ったの!?」
 烏丸が大した胆力で腹から発した音量が想像をはるかに超えていたので鷹山は目を丸くしたのちに笑ってしまった。
 笑いすぎて、震える肩を数発拳で小突かれながらいってきますと出発を告げる。
 そっけなく手だけを振って見送られ、途中で上着を羽織りながら向かった玄関で。


 左右に首を倒しつつ。
 大きく肩から腕を回すと、まったく、無造作な仕草で。
 鷹山崇は、くたびれたランニングシューズに、爪先から足底を押し込んだ。

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