【WEB版】ノルン・ド・ノアイユ
【プロローグ】
目を開けると、灰色の空が私を見下ろしていた。
ぽちゃぽちゃと可愛らしい水音がそよ風に乗って聞こえてくる。
瞼を擦った掌からは土の匂いがした。
頭がぼんやりとして、まるでまだ夢の中に居るような心地が抜けず、私は寝転がったまま花壇に咲いている蒲公英 に似た花を見た。
「それはあの遥かな山の頂から来たんだよ」
ふいに聞こえたその声は、私の頭の中だけに響いていた。
言われてみれば、確かにその花はまるで雪が生まれ変わったみたいに真っ白だった。
ぼうっと花を見つめていると、急に身体が小刻みに震えたような気がして、私は咄嗟に息を殺した。
すると、鼓動のリズムとは明らかに異なる振動が私の肌を揺さぶった。
目を瞑ると、地面が微かに揺れているのが分かる。
そして、地草の擦れる音に乗って歌が聞こえた。
重たい頭を振って、ゆっくりと起き上がると、突如視界が一面の白い花々で覆われた。
ホタルブクロ、ハンゲンショウ、白百合、アネモネ……。
見渡す限りの花壇は白い花で埋め尽くされ、曇天の下で光輝いて見えた。
どんよりとした灰色の空が割れて、光がこの庭に差し込んでいるのだ。
まるで雲の向こうに居るお日様がこの歌に引き寄せられているかのようだった。
今の私のように。
立ち上がるとすぐに、白衣を身に纏った女性が楽しそうに踊っている光景が目に飛び込んできた。
一心不乱に身を翻すその姿はとても優美で、それでいてなぜか荘厳な雰囲気が漂う。
私は白い日差しが額を焼いているのにも気付かずにその儚い姿に魅入っていた。
すると間もなく踊り手が動きを止めて、こちらを向いた。
その目の焦点が私の顔の辺りで結ばれた瞬間、青白い顔がくしゃっと崩れて、頬に朱が差した。
彼女は慈愛に満ちた笑みを浮かべると、何か言葉を発して、こちらに手招きした。
——私を、呼んでいる。
私は嬉しくなって急いで彼女の下に駆け付けた。踊り手の姿が目の前に迫り、一気に視界が明るくなる。
見上げると、手を差し伸べられた。私は躊躇わなかった。
踊り手は私の体を引っ張り上げると、またあの歌を歌いながら踊り始めた。
私も見様見真似で彼女のステップに合わせ、身体を弾ませた。
伴奏は彼女の歌だけだったが、不思議とそのリズムは私の体にすんなりと馴染んでいく。
そのときだ。
“きゃははっ”
私たち以外に人気の無いはずの庭園で楽しそうな声が上がった。
私は驚いて動きを止めた。
すると、いきなり羽の生えた小人のような生き物があちこちから現れたのだ。
「なに、あれ……?」
「あら、あなたにも見えるの?」
声のした方を見上げると、翡翠のような深緑の瞳が私を見下ろした。
私はなぜか堪らなく嬉しくなって、大きく頷いた。
わたしにも、みえるよ——。
* *
ゴトッと頭が何かにぶつかって、少女は微睡から顔を上げた。すると、馬車が揺れて後頭部が壁に当たって弾かれた。
じいんと痛みだした頭を手で摩りながら、少女は窓越しに差し込み始めた青い光を見つめた。
もうじき、夜が明ける。
——夢か……。
少女はずっと握りしめていた懐中時計を見つめ、おもむろにその蓋を開けた。
金属の擦れる鋭い音が鳴ると、針の止まった時刻盤が姿を現した。
外装にも内装にも小さな傷が所々に付いており、いかにも年季が入った趣である。
とっくの昔に時を刻むことを忘れた時計を握りしめて、少女はその蓋の裏側を虚ろな目で見つめていた。
そこにはたった一つの言葉が刻まれていた。
”ノルン”
そのとき、馬の嘶きが聞こえた。故郷が近いことを本能で察したのであろうか。嬉しそうでありながらどこかに切なさが含まれている、そんな声だった。
もう一度馬が鳴くと、少女は外套の布を頭から被り、馬車が俄かに速度を増す中、また目を閉じた。
——どうせなら、こちらが夢ならよかったのに。
目を開けると、灰色の空が私を見下ろしていた。
ぽちゃぽちゃと可愛らしい水音がそよ風に乗って聞こえてくる。
瞼を擦った掌からは土の匂いがした。
頭がぼんやりとして、まるでまだ夢の中に居るような心地が抜けず、私は寝転がったまま花壇に咲いている
「それはあの遥かな山の頂から来たんだよ」
ふいに聞こえたその声は、私の頭の中だけに響いていた。
言われてみれば、確かにその花はまるで雪が生まれ変わったみたいに真っ白だった。
ぼうっと花を見つめていると、急に身体が小刻みに震えたような気がして、私は咄嗟に息を殺した。
すると、鼓動のリズムとは明らかに異なる振動が私の肌を揺さぶった。
目を瞑ると、地面が微かに揺れているのが分かる。
そして、地草の擦れる音に乗って歌が聞こえた。
重たい頭を振って、ゆっくりと起き上がると、突如視界が一面の白い花々で覆われた。
ホタルブクロ、ハンゲンショウ、白百合、アネモネ……。
見渡す限りの花壇は白い花で埋め尽くされ、曇天の下で光輝いて見えた。
どんよりとした灰色の空が割れて、光がこの庭に差し込んでいるのだ。
まるで雲の向こうに居るお日様がこの歌に引き寄せられているかのようだった。
今の私のように。
立ち上がるとすぐに、白衣を身に纏った女性が楽しそうに踊っている光景が目に飛び込んできた。
一心不乱に身を翻すその姿はとても優美で、それでいてなぜか荘厳な雰囲気が漂う。
私は白い日差しが額を焼いているのにも気付かずにその儚い姿に魅入っていた。
すると間もなく踊り手が動きを止めて、こちらを向いた。
その目の焦点が私の顔の辺りで結ばれた瞬間、青白い顔がくしゃっと崩れて、頬に朱が差した。
彼女は慈愛に満ちた笑みを浮かべると、何か言葉を発して、こちらに手招きした。
——私を、呼んでいる。
私は嬉しくなって急いで彼女の下に駆け付けた。踊り手の姿が目の前に迫り、一気に視界が明るくなる。
見上げると、手を差し伸べられた。私は躊躇わなかった。
踊り手は私の体を引っ張り上げると、またあの歌を歌いながら踊り始めた。
私も見様見真似で彼女のステップに合わせ、身体を弾ませた。
伴奏は彼女の歌だけだったが、不思議とそのリズムは私の体にすんなりと馴染んでいく。
そのときだ。
“きゃははっ”
私たち以外に人気の無いはずの庭園で楽しそうな声が上がった。
私は驚いて動きを止めた。
すると、いきなり羽の生えた小人のような生き物があちこちから現れたのだ。
「なに、あれ……?」
「あら、あなたにも見えるの?」
声のした方を見上げると、翡翠のような深緑の瞳が私を見下ろした。
私はなぜか堪らなく嬉しくなって、大きく頷いた。
わたしにも、みえるよ——。
* *
ゴトッと頭が何かにぶつかって、少女は微睡から顔を上げた。すると、馬車が揺れて後頭部が壁に当たって弾かれた。
じいんと痛みだした頭を手で摩りながら、少女は窓越しに差し込み始めた青い光を見つめた。
もうじき、夜が明ける。
——夢か……。
少女はずっと握りしめていた懐中時計を見つめ、おもむろにその蓋を開けた。
金属の擦れる鋭い音が鳴ると、針の止まった時刻盤が姿を現した。
外装にも内装にも小さな傷が所々に付いており、いかにも年季が入った趣である。
とっくの昔に時を刻むことを忘れた時計を握りしめて、少女はその蓋の裏側を虚ろな目で見つめていた。
そこにはたった一つの言葉が刻まれていた。
”ノルン”
そのとき、馬の嘶きが聞こえた。故郷が近いことを本能で察したのであろうか。嬉しそうでありながらどこかに切なさが含まれている、そんな声だった。
もう一度馬が鳴くと、少女は外套の布を頭から被り、馬車が俄かに速度を増す中、また目を閉じた。
——どうせなら、こちらが夢ならよかったのに。
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